◎2017年9月17日(日)礼拝

・敬老祝福礼拝として礼拝を守ることができました。信仰の先輩たちを思いながら、
 これからも長い日々を共に歩むことができますように。
・CS礼拝の時、柴山文男さんがお話をして下さいました。感謝です。
・今週は「アジアの平和のために」「秋の特別集会を覚えて」を課題として
 共に祈りながら歩みたいです。
・病と戦っている友を覚えてお祈りください。
・礼拝後、定例役員会が行われました。


◎説教メモ「知音」金 鍾圭牧師 コリントの信徒への手紙一1:10〜17

 中国の思想家である列子(れっし)の湯間(とうもん)篇に、春秋時代の琴の名手、伯牙(はくが)の話が記されている。彼は一番の理解者であり、親友だった鐘子期(しょうしき)が亡くなると、自分の琴の音を理解してくれる人はもういないと、琴の弦を切って、二度と弾くことはなかった。この故事から「伯牙絶弦」(はくがぜつげん)または「知音」(ちいん)という言葉が生まれた。
 コリント共同体の中にはキリストによって一つであるにも関わらず、共同体の中で派閥ができていた。お互い「○○派」と強調し、互いに一致できなかったのである。この話を聞いたパウロは直ちにコリントの信徒へ手紙を書くことにした。キリストの共同体として歩むべき道を教えたのだ。
 互いに尊重し合わず、自己を絶対化する現代社会。琴の音を通じて理解し合った伯牙と鍾子期のように、今の世の中はキリストによって互いに尊重し、愛し合う教えが何より必要ではないのか。パウロが語るように福音を告げ知らせるために…。

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本日の礼拝
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CS礼拝
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◎2017年9月10日(日)礼拝

・9月の誕生者を覚えて子どもと大人が共に礼拝を守ることができました。
・今週は「秋の特別集会のために」「世界の平和のために」を課題として
 共に祈りながら歩みたいです。
・また、病と戦っている友を覚えてお祈りください。
・礼拝後、CSスタッフ会がありました。お疲れ様でした。


◎説教メモ「だれが友だち?」仲程愛美牧師 ルカによる福音書10:30〜37

 9・11から16年が過ぎようとしている。世界は争い、憎しみ、偏見、排除の連鎖は止まることを知らない。
 良きサマリア人のたとえを通して、イエスは私たちに「誰が友であるか」ではなく「誰が友となったか」と問われている。受け入れらない相手こそ、友になるべき存在なのだ。小さな勇気が、一言が関係を築く始まりとなることを心に留めたい。

◎2017年9月3日(日)礼拝

・振起日礼拝として礼拝を守ることができました。感謝です。
・新しい一週間も主と共に歩むことができますように。
・病と戦っている友、テロのない世界のために祈ります。


◎説教メモ「長いトンネルの向こうには」金 鍾圭牧師 ローマの信徒への手紙8:18〜25

 キリスト教は苦難の宗教と呼ばれる。これには外的要因と内的要因があると思う。外的にはキリスト教の迫害の歴史から分かるように、迫害を受けことである。ユダヤ教からの迫害により初期キリスト共同体は、多くの被害を受けた。ローマ帝国の国教として認められた後は、キリスト教を宣べ伝えるために宣教師たちが自ら迫害の道を歩んできた。
 一方、内的には、信仰の道を歩むための戦いである。キリスト共同体がまだ少数であった時、人々は自分たちの信仰を守るため忍耐しつつ歩んできたが、大多数になり立場が変わると、お金と力による宣教を展開した。信仰の内面を疎かにしたのだ。キリスト者はいつも誘惑と信仰の間にいる。内的葛藤の海を泳いでいるのだ。正しい道を歩むために戦い続けなければならない。
 罪によって目に見えるものに希望をもたらすことではなく、長いトンネルの向こうにある、神の栄光に希望を持ちながら歩んでいきたい。
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◎2017年8月27日(日)礼拝

・新しい一週間も神と共に歩むことができますように。
・大人と子どもが共に礼拝を守ることができました。
・礼拝後、アクア混声合唱団により、被災地復興のための
 チャリティーコンサートが行われました。感謝です。


◎説教メモ「その背後に」仲程愛美牧師 コロサイの信徒への手紙3:18〜4:1

 神の愛によりイエスと結ばれている私たちは、その愛によってまた隣人と結びついていく。「愛は、すべてを完成させるきずなです。(3:14)」と語る著者は愛によって繋がっていく人間関係を示そうとしている。文面だけを見れば、時代錯誤のように感じるが、その根底にある「神の家族」のあり方を考えたい。
 辞典によれば、社会生活を営む人間の最小の生活単位は個人ではなく、家庭だという。だが今や家族・家庭のあり方は様々であり、人々の生き方、生活そのものが変化してきた。その中で「神の家族」をイメージするのは難しい面がある。
 人間同士のきずな(愛)には限界があり、不確実である。だからこそ、その人間の背後にある神を見上げ、感じなければいけない。愛せない相手、支えたくない相手でも、その間に神がおられ、イエスが繋いでいてくださっていることを忘れず「神の家族」の交わりをしていきたい。
◎2017年8月13日(日)礼拝

・8月誕生者祝福礼拝として大人と子どもが共に礼拝を守ることができました。
・礼拝後、そうめん流しが行われました。
・暑い日々が続いております。熱中症などにならないようご自愛ください。
・病など戦っている友を覚えて祈ります。


◎説教メモ「人生のナビゲーション」金 鍾圭牧師 ヨハネによる福音書20:30〜31

 夏休みが訪れた。この時期を利用して家族旅行する人々も多いだろう。夏休みになると、幼い頃の家族旅行のある出来事を思い出す。
 父は朝から地図との戦い。行ったことない道を走らないといけないからだ。出発してどのぐらい経ったのか、父の様子が可笑しい。しっかりと覚えたはずが道に迷っている。夏休み定番の高速道路渋滞と重なり目的地に遅れて到着。神経質になった親たちとは違い、家族旅行で楽しんでいる子どもたちの姿を見て父はホッとする。
 音声案内など最新の技術が搭載されたカーナビのお陰で今の運転は快適になった。車にナビがあるかないかによって運転の環境は大幅に変わる。時にはスピードなどの安全運転のためアドバイスも忘れない。
 私たちにとって「聖書」がその役割を果たしている。カーナビのように私たちの人生の目的などを案内しているのだ。時には自分の考えとは違う道を教えているが、後で見るとその道は正しかった。聖書は神の言葉であり、キリストを証することであるからだ。聖書というナビを持って人生の道を走り出そう。
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◎2017年8月6日(日)平和聖日礼拝

・平和聖日として、子どもと大人が共に礼拝を
 守ることができました。感謝です。
・主の平和が、この世に満たされることを願います。
・病のため、礼拝に集うことが叶えない兄弟・姉妹を覚えてお祈りします。
・8月のCS礼拝は大人と共に合同礼拝です。小学校に入る前のお友だちは第1集会室で、
 小学生以上のお友だちは礼拝堂で大人と一緒に礼拝をします。集合時間は10時15分です。
・日曜食堂・オリーブ会は、8月の1ヶ月間お休みさせていただきます。


◎説教メモ「平和の恵み」金 鍾圭牧師(Ⅱコリント5:14〜6:2)

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3:16)は、この世界に対する神のお考えが見られる聖句である。そもそも何で神は独り子を私たちにお与え下さったのか。それは本日の聖書にも書いているように「世を御自分と和解させる」ためである。初めて人類が犯した過ちにより、神と人間は断絶された。つまり、親子の関係が破綻したということである。しかし、神は自ら私たちと和解を望み、独り子であるイエス・キリストを通して世を贖って下さった。この和解の道筋を私たちも歩まなければならない。
 72年前、日本は悲惨な現実を目の当たりにしながら戦争を終えた。その後、平和への道を歩もうと憲法9条を大切にしてきた。しかし、今の社会はこの平和への道を脅かしている。私たちは自ら「和解」を破ろうとしているのだ。神が私たちと和解を結んだのは、その道が正義だったからだ。人と人が互いに傷つくことではなく、互いに尊重することが、自ら和解した神のお考えであり、私たちが倣うべき道ではないのか。
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本日の礼拝
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CS礼拝
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日曜食堂
◎2017年7月30日(日)主日礼拝

・共に礼拝を守ることができました。感謝です。
・昨日、小柴せつこ姉のお別れ会が行われました。
 遺族の上に主の慰めがありますようお祈りします。
・病のため、礼拝に集うことが叶えない兄弟・姉妹を覚えてお祈りします。
・8月のCS礼拝は大人と共に合同礼拝です。小学校に入る前のお友だちは第1集会室で、
 小学生以上のお友だちは礼拝堂で大人と一緒に礼拝をします。集合時間は10時15分です。



◎説教メモ「誰が私を変えるのか」仲程愛美牧師(ローマ9:19〜28)

 神の被造物である人間は、陶工の手中にある粘土のようなもの。作り手に全てが委ねられ、形造られ陶器は完成する。
 神はイスラエルの民を選び、その民との関わりを通して、人間が神の御手の中にある存在だと示された。そして、時に投げて打ち砕かれるような器(存在)を、神の栄光を現す憐れみの器として造り変えられる。怒りの器を、忍耐をもって憐れみの器としてくださる神の姿勢を手紙の著者は語る。
誰が私たちを変えるのか。それは人間を造られた神の他にいない。神から遠ざかっている者にも向けられる神のまなざし、神の計画がそこにある。全ての人が神によって新しくされる。
 私たちは、神から離れた異邦人だったイスラエルの民も同様に、神を知らない者、神から目を背ける者でもあった。しかし、神の寛容と忍耐が、私たちを怒りの器から恵みの器へと変えくださる。神の御手の中にある「私」を心に留めていたい。
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・日本の豪雨災害地を覚えてお祈りします。
・病のため礼拝に集えない、兄弟・姉妹を覚えてお祈りします。
・CS礼拝では、佐藤一生兄がお話をしてくださいました。
・礼拝後、80周年記念誌委員会がありました。


◎説教メモ「適当な真似は・・・」金 鍾圭牧師(使徒言行録19:13〜20)

 ユダヤ人の祈祷師たちの物語を通して、神は私たちに三つの大事なことを教えて下さっている。一つ目、奇跡は目的ではなく手段であること。二つ目、イエスの御名は試すために使うことではない。最後に三つ目は、イエスは他者ではなく、人格的な関係で結ばれた我が主であること。
 パウロは奇跡が宣教の働きにあって目的ではなかった。彼にとって奇跡は神の御業を示す一つの手段だった。しかし、祈祷師たちには奇跡は自分たちの成功の目的であった。彼らはイエスの名を試しに用い、十戒の第3である「神の名をみだりに唱えてはならないこと」の戒めを破ったのだ。この罪を犯したのは、ユダヤ人である彼らにとっては、イエスは他人であり、関係のない存在と思っていたからである。しかし、イエスは特定する誰かのキリストではなく、全ての者の「我が主」キリストであることを忘れてはならない。
 自分たちの利益のため「適当な真似」を行なったユダヤ人の祈祷師たちが、もし、我が主としてイエスの御名を唱えたとしたら、本日の聖書の内容は大幅に変わっていたかもしれない。