◎2017年10月15日(日)礼拝

・信徒伝道日として礼拝を守り、上田康子姉から奨励をいただきました。
・今週は「世界の子どもたちのために」「日本の政治のために」を課題として
 共に祈りながら歩みましょう。
・キリスト教教育週間&平和のきずな献金
 今年も日本を含めた世界の子どもたちに目をむけ、すべての子どもたちが安心して
 暮らせる平和な世界が実現するよう共に祈りましょう。
 皆様が捧げて下さった平和のきずな献金は、
 ①カンボジアの小学校での保険教育支援に、 
 ②キューバに100万冊の聖書を届けるプロジェクトとモンゴル語の
 聖書翻訳作業の支援に、
 ③アイヌ奨学金に、④外国にルーツをもつ福島の子どもの教育支援に、
 ⑤NCC教育部平和教育推進基金に用いられます。
・礼拝後、定例役員会がありました。
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◎2017年10月8日(日)礼拝

・10月の誕生者を覚えて、子どもと大人が共に礼拝を守りました。
・今週は「信徒伝道週間を覚えて」「病と戦う共のために」を課題として
 共に祈りながら歩みましょう。
・礼拝後、CSスタッフ会がありました。
・うどん食堂はじめました!


◎説教メモ「信頼できるのか」金 鍾圭牧師 創世記12:10〜20

 辞書で信頼の意味は「信じてたよること。たよりにできるとして信ずること」と記載されている。信頼ということは、信じることだけではなく、相手に対する頼る気持ちを示すことだという。このような人生の体表的な人物がアブラハム(本箇所ではアブラム)である。
 彼は神に対する深い信頼を持っていた。創世記に記されている彼の物語を通して、神への信頼がよく見られる。しかし、彼が最初から堅い信頼があったかというと、そうではない。信じていたかもしれない。が、神にすべてのことを委ねた訳にはいかなかった。そのような彼の姿を如実に見せているのが本日の聖書である。
 アブラムは創世記10章7節の神の約束をどのように理解していたのか。誤解していたのではないのか。誰かを信じることは簡単であろう。しかし、次元を超えて信頼へ至る道はそんなに簡単ではないようだ。
 神を「信じる」ことから、神を「信頼する」道を歩むことの大事さをアブラムの物語を通して学べると思う。神への深い信頼を持って、神に頼りながら歩んでいきたい。
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本日の礼拝
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うどん食堂はじめました!
◎2017年10月1日(日)礼拝

・世界聖餐日礼拝として、礼拝を守ることができました。感謝です。
・今週は「日本の政治のために」「各国の宣教を覚えて」を課題として
 共に祈りながら歩みましょう。
・病と戦っている友を覚えてお祈りください。
・礼拝後、80周年記念誌委員会、礼典委員会がありました。


◎説教メモ「受け継ぐために」仲程愛美牧師 エフェソの信徒への手紙5:1〜5

 憧れの人に少しでも近づきたく、髪型や格好を真似てみる。そんなほろ苦い経験が一度はあると思う。それがいつしか自分らしさに変わればいいのだが、そう上手くはいかない。ただ、この繰り返しが「自分」を見つけることに繋がっているのかもしれない…。
 「神に倣う者となれ」と手紙の著者は語る。倣いたくても倣えないから神なのだ、と反論したくもなるが、なぜ、このように勧めたのかを考えれば、神に倣う者として生きることは魅力的だと気づかされる。
 無条件に受け入れてくれる存在。すべてを投げ捨ててでも助けてくれる存在。その存在=神の「子ども」として関係を築くことが求められている私たちだからこそ、私たちは最も近くにおられる神に倣って生きていくことを、日々思いながら歩んでいる、いこうとしているのだ。
 神から離れないために、神に倣う。それが一人ひとりに与えられている宿題なのかもしれない。キリストと神の国を受け継ぐために、今日もまた、神に倣って歩んでいこう。

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本日の礼拝
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大人礼拝
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CS礼拝
◎2017年9月24日(日)礼拝

・共に礼拝が守られ感謝です。新しいこの一週間も
 主と共に歩むことができますように。
・今週は「被災地のために」「世界宣教の日を覚えて」を課題として
 共に祈りながら歩みたいです。
・病と戦っている友を覚えてお祈りください。
・礼拝後、秋の特別集会として「さとにきたらええやん」の上映会が行われました。
 その後、壮年会主催焼肉パーティーがありました。感謝です。



◎説教メモ「あわれみの中で」仲程愛美牧師 ヤコブの手紙2:8〜13

 公同書簡と呼ばれるヤコブの手紙は、広範囲の教会、キリスト者に宛てられた。その土地にあって教会は独自のキリスト教理解を深めてしまう面がある。ここにもそうした現状があった。パウロの信仰義認を誤解し行いを軽んじた人々に対しての勧めが記されている。
 イエスは律法の完成を望んでおられたが、それは律法厳守を意味しているのではなかった。神の憐れみを知り、その愛の深さに触れた時、湧き上がってくる信仰、「神に委ね応答する」生き方を指しているのだと思う。
 神の憐れみにより、私たちはイエスを通して神と向き合うことができている。にも関わらず、一人前であるかのように自身の小ささや脆さを棚にあげ、他者を評価しようとする。そのような私たちは、いずれ神の前に立つ時が訪れることを忘れてしまってはいないだろうか。
 行いを伴わない信仰なら、弱くされた人々の中におられるイエスと出会うことは出来ない。一方、口先だけの信仰は神の愛に気付くことはできないのだ。
 キリストのあわれみの中で生かされている者としての「信仰」が問われているようだ。
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本日の礼拝
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CS礼拝
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秋の特別集会
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秋の特別集会
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壮年会主催焼肉パーティー
◎2017年9月17日(日)礼拝

・敬老祝福礼拝として礼拝を守ることができました。信仰の先輩たちを思いながら、
 これからも長い日々を共に歩むことができますように。
・CS礼拝の時、柴山文男さんがお話をして下さいました。感謝です。
・今週は「アジアの平和のために」「秋の特別集会を覚えて」を課題として
 共に祈りながら歩みたいです。
・病と戦っている友を覚えてお祈りください。
・礼拝後、定例役員会が行われました。


◎説教メモ「知音」金 鍾圭牧師 コリントの信徒への手紙一1:10〜17

 中国の思想家である列子(れっし)の湯間(とうもん)篇に、春秋時代の琴の名手、伯牙(はくが)の話が記されている。彼は一番の理解者であり、親友だった鐘子期(しょうしき)が亡くなると、自分の琴の音を理解してくれる人はもういないと、琴の弦を切って、二度と弾くことはなかった。この故事から「伯牙絶弦」(はくがぜつげん)または「知音」(ちいん)という言葉が生まれた。
 コリント共同体の中にはキリストによって一つであるにも関わらず、共同体の中で派閥ができていた。お互い「○○派」と強調し、互いに一致できなかったのである。この話を聞いたパウロは直ちにコリントの信徒へ手紙を書くことにした。キリストの共同体として歩むべき道を教えたのだ。
 互いに尊重し合わず、自己を絶対化する現代社会。琴の音を通じて理解し合った伯牙と鍾子期のように、今の世の中はキリストによって互いに尊重し、愛し合う教えが何より必要ではないのか。パウロが語るように福音を告げ知らせるために…。

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本日の礼拝
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CS礼拝
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◎2017年9月10日(日)礼拝

・9月の誕生者を覚えて子どもと大人が共に礼拝を守ることができました。
・今週は「秋の特別集会のために」「世界の平和のために」を課題として
 共に祈りながら歩みたいです。
・また、病と戦っている友を覚えてお祈りください。
・礼拝後、CSスタッフ会がありました。お疲れ様でした。


◎説教メモ「だれが友だち?」仲程愛美牧師 ルカによる福音書10:30〜37

 9・11から16年が過ぎようとしている。世界は争い、憎しみ、偏見、排除の連鎖は止まることを知らない。
 良きサマリア人のたとえを通して、イエスは私たちに「誰が友であるか」ではなく「誰が友となったか」と問われている。受け入れらない相手こそ、友になるべき存在なのだ。小さな勇気が、一言が関係を築く始まりとなることを心に留めたい。

◎2017年9月3日(日)礼拝

・振起日礼拝として礼拝を守ることができました。感謝です。
・新しい一週間も主と共に歩むことができますように。
・病と戦っている友、テロのない世界のために祈ります。


◎説教メモ「長いトンネルの向こうには」金 鍾圭牧師 ローマの信徒への手紙8:18〜25

 キリスト教は苦難の宗教と呼ばれる。これには外的要因と内的要因があると思う。外的にはキリスト教の迫害の歴史から分かるように、迫害を受けことである。ユダヤ教からの迫害により初期キリスト共同体は、多くの被害を受けた。ローマ帝国の国教として認められた後は、キリスト教を宣べ伝えるために宣教師たちが自ら迫害の道を歩んできた。
 一方、内的には、信仰の道を歩むための戦いである。キリスト共同体がまだ少数であった時、人々は自分たちの信仰を守るため忍耐しつつ歩んできたが、大多数になり立場が変わると、お金と力による宣教を展開した。信仰の内面を疎かにしたのだ。キリスト者はいつも誘惑と信仰の間にいる。内的葛藤の海を泳いでいるのだ。正しい道を歩むために戦い続けなければならない。
 罪によって目に見えるものに希望をもたらすことではなく、長いトンネルの向こうにある、神の栄光に希望を持ちながら歩んでいきたい。
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◎2017年8月27日(日)礼拝

・新しい一週間も神と共に歩むことができますように。
・大人と子どもが共に礼拝を守ることができました。
・礼拝後、アクア混声合唱団により、被災地復興のための
 チャリティーコンサートが行われました。感謝です。


◎説教メモ「その背後に」仲程愛美牧師 コロサイの信徒への手紙3:18〜4:1

 神の愛によりイエスと結ばれている私たちは、その愛によってまた隣人と結びついていく。「愛は、すべてを完成させるきずなです。(3:14)」と語る著者は愛によって繋がっていく人間関係を示そうとしている。文面だけを見れば、時代錯誤のように感じるが、その根底にある「神の家族」のあり方を考えたい。
 辞典によれば、社会生活を営む人間の最小の生活単位は個人ではなく、家庭だという。だが今や家族・家庭のあり方は様々であり、人々の生き方、生活そのものが変化してきた。その中で「神の家族」をイメージするのは難しい面がある。
 人間同士のきずな(愛)には限界があり、不確実である。だからこそ、その人間の背後にある神を見上げ、感じなければいけない。愛せない相手、支えたくない相手でも、その間に神がおられ、イエスが繋いでいてくださっていることを忘れず「神の家族」の交わりをしていきたい。